アルは黙っていた。自分が所持したいのはとても簡単な理由だ。だが、たやすく口にしていいものかそれがわからない。
「もう無力なのは嫌なのだ。わしは二度神に挑み知った事がある。一度は自身の無知を知り、もう一度は無力を知った。だからだ」
トリュファイナは小さく頷いた。
「分かりました。どちらにしろ再封印は書の形に戻すのが簡単ですし。少しばかり眼を通すのは構いません」
箒がゆっくりと動く。宙に文様が描かれ、回りから魔力をすっていく。それは一冊の本の形をとった。その宙に浮かび上がった赤い本をアルは受け取った。本は虫に食われたようにところどころがかすれている。
「完全ではありません。飛び散った一部はエリクが浄化してしまいましたから」
「それでどんな効果がある」
「禁じられた呪文には秘された事が多いのです。だから使ってみるまで分からないというのが本当の事です。今回のように不死が大量に繁殖するのは記録にないですが、『昏き理』はそういうものではないと聞いています」
「なるほど」
アルは書をすばやくめくった。確かに呪文そのものは効果を示すものはない。読め発音できるが理解はできない。そういう呪文だ。
「ちょっとあれ」
レジスが指差す方には影が立ち上がっている。『昏き理』は書物の姿になったというのに影は未だあふれて来る。
「でも今回の原因は『昏き理』ではないみたいですね」
フェルティアはいった。
「贄ですよ。あなた方は」
空気は変質するのか分かった。掌の雪が融けるように世界が形を変える。
影はもう出現しない。そうではなく多きく広がり、世界そのものを影に埋めていく。
「これは」
アルはその変わり行く世界を知っていた。なぜならばこの世界こそは、アルが友を失ったのと同じ匂いを持っていたからだ。
「みんな円陣を組め」
アルは両手を掲げた。
「護れよ」
光の幕が何かにぶつかり弾ける音が響く。
「これは」
呟くフェルティアの前に黙ってレジスは立った。
「大丈夫だよ。何とかする」
「はい。私もそう思います」
フェルティアもアルに習い呪文を唱え、魔力を重ねて防御力を高めた。
ニアヴも弓を構えている。
エリクが闇払う陽の標を一閃した。世界が再び傾く。影の一部が裂けてどこからともなく薄明かりが広がる。
「気休めだか」
「何か出掛かっているのだな?」
エリクは頷いた。
「だめだ来るぞ」
世界がひび割れた。その中から手が現れ、体が出てきてやがて一体の姿をとる。アルと同じよう白い衣。しかしアルの衣が生を示す無垢なる白なら、そのもののまとう白は野ざらしにされた骨の白であった。顔もまた骸骨であった。
「ダルタロック神の三柱なる従神の二」
「我が神の贄となるにふさわしいものが今宵はたくさんですね。さすがに餌が大きければかかるものも多いですな」
ニアヴから矢が放たれるが触れることなく宙で止まり、塵と化し落ちる。
「妖精種はあまり好きではないのですよ。極上の人間がこれだけもいるのだから」
言葉は終わりきることはなかった。エリクの闇払う陽の標がその首を貫通している。
「黙れ」
首が転がった。
「全く以て恐ろしい。『白き翼』に与えられた傷が癒されていないからこそですが一撃で従神たる我の身体を破壊するとは。さすが失われし神の剣ですね」
従神の二の転がった首はいった。
「あなたも達しているのですね。実にいい日だ今日は。これならば十分です」
エリクは首を踏み潰した。
残っている従神の二の体が歪む。
体が爆発する。その欠片が集約し、一つの鎌となった。その鎌を持つ手が現れ、やがて一人の老人の姿をとる。しかししているのは姿だけでそこにいるのは。
感覚が鋭いものほどその影響を受けていた。
フェルティアはレジスにしがみついている。幼子のようなその姿はいつもの伯爵令嬢の姿ではなかった。レジスもフェルティアがいなければ怯んでいたかもしれない。しかし幼子のようにすがる彼女がレジスを強くしていた。
「大丈夫だから」
レジスは仲間を見た。みんな動じてはいない。
「俺もみんなもいるから」
最初に口を開いたのはトリュファイナだった。
「ダルタロック神」
トリュファイナの言に老人は頷く。
「正気を失わぬのはさすが月の巫女よの。ディラハム神を退けたのはあれの油断ではなかったということかな」
「これはなんのおふざけですか神よ。人の世にきてのこの振る舞いは神の律に反するのではないでしょうか?」
「我は神ぞ。人のもつものでは量りきれぬ。また新たなる周期が始まる。ムーアの栄華が続くとは思わぬ事だ」
エリクは仕掛ける機会を計るように鋭いまなざしを向けている。だが、圧倒的な力が見えるだけに仕掛けられない。
「それにな、わしとてまだここに来る気はなかったが」
ダルタロック神の声が止まった。顔が歪む。歪みはやがて顔全体を多い、そこには目も鼻も口もなく無貌が存在した。
「この姿にはまだなれていないのでね」
その声をアルはしっていた。
「バネット・ガドフリー」
無貌は人の顔の形をとった。