「だからあなたは強くなって」
明は涙を拭くとそのまま背中を向け早足で歩き始めた。歩いているうちに涙が流れてきた。自分がいってしまった酷いことがどれだけ明を傷つけたのか。宇賀という人の言葉にのせられて自分は何をしたのだろう?
友達を傷つけただけだ。
気付けば家の前だった。
猫の鳴き声がした。声の方には猫が立っている。
「気ヲツケ・・・」
鳴き声に混じるようにそんな言葉が聞こえた。
紅葉は息を潜めながら自宅のドアノブに触れた。大きな火花が飛ぶ。静電気にしては痛みの残る感触が手に残る。
「ただいま」
玄関に入る。いつもなら答える母親の声がない。どうしてそんな風に思えたのだ。
紅葉の中で違和感が大きくなる。ボタンを掛け違えているようなそんな感覚。
それを押し殺すように紅葉はできるだけいつもの声で言った。
「お母さん?」
紅葉は転がりそうになりながらリビングに行く。母親の葉子の姿はない。
ドアが開く音がした。
「お母さん」
紅葉は安心しながら玄関に向かって駆けていった。
玄関では葉子が近所のスーパーの買い物袋を持って帰ってきたところだった。
「ただいま」
こっちからいうのはおかしいと思いながら紅葉はそういっていた。母親は困ったように笑った。
「おかえりなさ・・・」
紅葉は声を止めていた母親の後ろに見える何かの赤いもの。
それはあの夜見た犬の目の輝き。
「おかあさん」
自分の声が震えているのが紅葉には分かった。
葉子は叫んだ。
「逃げて紅葉」
葉子の身体が前に倒れる。紅葉は母親を抱きとめた。紅葉の手が血に染まった。
「ごめんなさい紅葉。あなたを辛い目を合わせたくなかったのに」
葉子の背中から滲んだ赤が広がっていく。
「おかあさん。わたしを一人にしないで」
悲鳴を含んだ紅葉の声を聞きながら、笑っているものの姿があった。
そう、それはウサギだった。
小松成美が拾ったウサギ。しかしその目は赤く、凶暴な気配に満ちている。
「手間カケサセタナ」
ウサギは話していた。本来、発声する器官でもないにその声ははっきり聞こえた。そうそれは紅葉の頭の中に響いてくる。
「アノクソ女サエイナケレバモウオワッテイタノニ」
そのノイズのようなものが紅葉を激しく苛立たせる。
紅葉は葉子を背負った。不思議なくらい葉子は軽かった。
「どいて」
ウサギは笑った。
「オマエハヨリ大キナモノト一ツニナル。子葉ナドモウヒツヨウナイ」
「紅葉生きて」
「おかあさん」
重さが増した。
「おかあさん」
紅葉は背負っていた母親を見た。そこにはぬくもりを失い、ただのものになっていく母親の姿があった。
「おかあさん」
紅葉の目から涙が滲む。
「もう嫌だ」
涙がこぼれた時、光が紅葉の身体を包んだ。
◇
紅葉は池之端公園にいた。
水道に口をつけて一気に水を飲む。
震えは止まらなかった。
紅葉は自分の手を見た。赤く染まっているのは母親の血の赤さだった。
その血を見ながら紅葉の中で何かが動いた。それは紅葉自身が忘れていた何か。
−なんだろう・・光、女の人・・・何だろうこれ−
ずっと前、芝居を見た。そうだ。PANDORの芝居。
「紅葉」
聞きなれた声に紅葉は振り返った。
公園の入り口には小松成美が立っていた。街灯の光の中に立つ成美はいつものように元気よく手を上げた。
「成美」
制服姿の成美は日常の姿だった。いつもと変わらない平穏が涙が出るくらい嬉しい。
紅葉は成美に向かい走っていった。
成美の笑顔が見たことも無いくらい引き締まった。その顔が凍えるように強張った。紅葉は振り返った。
その成美の視線の先にいるのは一人の少女の姿だった。変事の先駆けとなった黒犬から紅葉を救った少女。
「だめ」
紅葉の声など聞こえぬように少女は刀を抜き放った。
一閃。
切られた成美の身体が崩れ落ちる。
力を失い倒れる成美の身体を紅葉が支えた。
街灯の光の中に少女が歩みよる。
「どうして明?」
その少女は五月明に他ならなかった。
紅葉の問いに答えず明は成美の身体を引き離そうとする。紅葉はそれを阻もうとする。
「離れなさい」
「嫌」
紅葉は明の前に立ちふさがった。
「成美は私の友達。だからだめ」
「あなたも取り込まれたいの?」
明の言葉に答えず紅葉は成美を守るように抱きしめた。
「痛いよ」
その声に紅葉は成美の事がよく見えるように体を離した。
元気な声に、安堵する紅葉の心が怯えに変わる。
閉ざされていた成美の目が開いた。そこにあるのは赤。
襲ってきた黒犬や、母葉子の命を奪ったウサギと同じ光。
「どうして」
離れようとする紅葉の手を成美は力強く押さえた。
「逃げちゃ駄目だよ紅葉。だってあなたは一部なんだから」
「成美?」
成美が姿だけを残してまったく違うものになってしまっているのが紅葉には分かった。
それでも友人のその姿に紅葉は何もできずに赤い唇が自分に近づくのを見つめていた。
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