小原紅葉は帰路についていた。
町はいつも以上にひっそりとしているようだった。
昨日の夜、宇賀史明と話した時に感じたようなイメージの奔流はなくなり、変わりに重い疲労が身体に残っていた。そのまま一日を過ごしてから上がった舞台。
舞台に立ち、違う誰かを演じていると、何から力を貰ったように紅葉は元気だった。
練習が終わったあともその元気は続いている。
−昨日はおかしかったよね−
有馬研究所での治療と、思いがけない話のせいで気が高ぶっていただけだ。
紅葉は身体を伸ばした。大きく伸ばした手は空にも届きそうに思える。
「紅葉」
振り返ると小松成美が手に白いウサギを抱いて立っている。
「あれどうしたの?」
部活で別れたが方向が違うのでこちらにくることはないはずだった。
成美は何も言わずに近づいた。
「そのウサギ、どうしたの?」
「不思議の国から迷い込んできたみたい」
何と返していいか困っている紅葉に成美は小さく笑った。何か嫌な笑い方だった。
「事件の時に逃げ出したみたいで、拾ったの」
「そう。子供たちも喜ぶね」
紅葉に向かってウサギは猫が甘えるように飛びついてきた。顔をすりつけてくるうさぎに紅葉は笑った。
「だめだよ」
「お約束ね。やっぱりウサギもかわいい娘が好きみたい」
その言葉の響きのきつさに紅葉は驚いて成美を見た。
始めてみる成美の表情だった。いや、表情ではない。憎悪という思いが顔を仮面のように固めている。
そう思った紅葉の顔が張り飛ばされた。驚いたウサギが紅葉の手から逃げ茂みの中に消えていく。
「あんたの事は最初から気に入らなかったのよ。『わたしはお姫様』みたいな顔して、三年間あんたはあっさり主役でわたしはプロンプタ(黒子)。笑ってたんでしょ」
「そんなことない」
紅葉は成美を見ながら言った。
「そんなことないよ。劇はみんなで作るものだもの」
「奇麗事ばっかり言って」
成美が再び手を振り上げた。紅葉は傷みに耐えようと目を閉じた。痛みは来なかった。
「何するのはなせよ」
目を開けると五月明が成美の手を抑えていた。
「明」
「離せ」
成美は明から逃れようと暴れた。
「いいよ」
明が手を離すと成美は、憎憎しげに明を紅葉を見た。そしてウサギを茂みから引っ張り出し走り出していった。
「ありがとう明」
紅葉はおどろいていた。明の顔にも仮面のように硬い表情が張り付いている。
「もっと強くならないといけないよ」
紅葉は頷いた。
強くならないといけない。だったらできることはなんだろう。
「だからいくね」
成美の追おうと明に背を向けた。
「どこにいく気?」
「成美のところ」
明は驚いたように目を大きく見開いた。そして大きくため息をはいた。
「私が見てくるからあなたは家に帰りなさい」
「だって」
「帰りなさい。さっきの彼女の様子から、紅葉がいっても同じことになるわ。まだ、私の方が落ち着いて話せるかもしれない彼女も」
明の強い視線に紅葉は頷いた。
「頼むね。いつもあんな子じゃないの」
「任せておいて」
明は成美と同じ方向に走り出した。
◇
紅葉は足音を立てないようにダイニングキッチンで料理をしていた。
どうも食欲がないせいで飲み込んでいけそうなものがいいと、おじやを作っていた。
母親の葉子はどうも疲れて眠ってしまっているようで、一人分だけ作ればいい。冷凍してあったゴハンをレンジで暖めて、その間にカツオぶしでだしをとっていた。
成美の事が思い出された。成美があんな風に自分を思っていたと思うと気がめいってくる。
「どうして気付いてあげなかったんだろう」
今まで積み重ねてきた思い出の一つ一つ。
その中で成美はいつも近くに居た。そんな彼女の笑顔の後ろで、あんな苦痛があったのだと思うと。
紅葉はゴハンをだし汁の中に混ぜた。沸騰したところを見計らってタマゴを割るだけだ。
「わたしたちの世界もこんな風なのかな」
有馬研究所でした訓練を思い出す。そう考えれば自分の悩みもきっと小さなものかもしれない。でも、タマゴを持っている紅葉は中にいる紅葉を知っているのだろうか?
電話が鳴った。
紅葉は電話に出た。
「おはようございます。え、成美が。昨日は別々に帰ったんですけど、まだ帰って
ないんですか?」
成美とそれを追っていった五月明の姿が紅葉の頭に浮かんできた。
紅葉が物思いから抜け出すことができたのは、おじやがこげた臭いのためだった。
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