紅葉の前にはたまごがあった。
たまごには多くの星とそれ以上の空隙があった。
星には惑星があった。
惑星には大地があった。
大地に街があった。
街に家があった。
家に紅葉がいた。
紅葉の前にはたまごが・・・・。
◇
「紅葉君」
呼びかけられ紅葉は我に返った。
紅葉の前にはたまごがあった。
さっきまでの広がりが嘘のように、置かれているのはただ石をたまごの形にしたものだ。
さっきまでこの中に紅葉はいたような気持ちがしていた。それは紅葉だけでなく、世界全てがこの中にあったような錯覚だ。
いつの間にか部屋の中には灯りがともっている。窓の形に切り取ったように見える外は、もう暗くなっている。
「最長記録だね」
有馬はにっこりと笑いながら言った。
壁にかけられた時計を見ると8時近い。二時間あまり観想をしていたようだ。
確かに今日はできが良かった。まるでたまごの中に本当に世界があるような気がした。そして自分は創造主であり、看視者であり、その中で生きている人間だった。中の紅葉、自分も同じように卵を持っていた。
「今日はここまでにしておこう」
「ありがとうございました。ああ、そう言えば夏に芝居をするんです。先生も良かったら身に来てください」
「君は演劇部だったなシェークスピアでもするのかな?。昔見た紅葉君のジュリエットは背筋が寒くなるほどだったが。もっとも私の趣味でなら君にはテンペストのエアリアルをしてもらうがね」
「いいえ。シェークスピアじゃないんです。先生がご存知かどうか分かりませんが『PANDORA』を」
有馬の顔が一瞬強張った。
「ご存知ですか?」
「ああ。唐十郎の再来と言われた野外劇だね。もっとも官憲が入ってしまい一度だけの上映だったようだね」
「そうです」
「よく脚本があったものだね」
「図書館にあったらしいですよ。それを先生が見つけてきたそうです」
有馬は頷いた。
「中身はどんな感じかね」
「悲劇が多いですね。演じている時はとても悲しくなるときがあります」
8時をしめす鐘の音が時計から響いた。
「すっかり遅くなってしまったな。芝居の方は是非行かして貰うとしよう」
「はい。次に来るときはチケットを持ってこれると思います」
紅葉は頭を軽く下げた。
外に出ようとした瞬間、小原紅葉は身体が揺らぐのを感じだ。
眩暈だった。
倒れないように机に手をついた途端、大理石の卵が転がった。その卵が壊れるような気がして紅葉はあわてて手を伸ばした。
「だいじょうぶかね紅葉君?」
「どうしたのかな」
紅葉は大きく息を吐いた。
「疲れているようだが」
「だいじょうぶですよ」
紅葉は快活に笑ったが、眩暈はまだ続いていた。
「最近物騒だからね。君も気をつけることだ」
「先生もそういうんですね。だいじょうぶですよ」
ワイドショーの内容を思い出しながら紅葉は言った。
「ああいうものは大抵の遊戯と同じくエスカレートしていくものだからね」
「はい。じゃあ、失礼します」
「うむ」
有馬は軽く手を振って紅葉を送り出した。
◇
微かな月の輝きが世界を包んでいる。
出てきた紅葉に三毛ネコが二度掠れた声で鳴く。
「どうしたの。遊んでほしいの」
紅葉はネコを抱き上げた。
「何カイル気ヲツケテ」
「え」
ネコは紅葉の手の中から逃げ出すともう姿は見えなくなった。
「やっぱりわたし疲れてる」
猫はしゃべらない。目の前で消えられていたらチャシャ猫なのに。
そう思いながら紅葉は小さく笑った。そのまま診療所の敷地から外に出た。
紅葉は左右を確かめ不審な人影がないのを確かめて歩き出した。
家まで慣れた道なのに紅葉は気を張ったまま歩いていた。そうしていると後ろから誰かがついてくるのが分かる。
−試してみよう−
紅葉は靴紐を結ぶ振りをして中腰になった。ついてくる足音も止まっている。
紅葉の頭に明の言葉が蘇った。
「もっと強くならないと」
紅葉は立ち上がるときっと前を向き走り出した。
すぐ見えてきた曲がり角を曲がり、紅葉は立ち止まると、カバンを両手で持った。
耳をすまし追いかけてくる相手を待つ。足音が近づいてくる。
誰かが角を曲がってくると、紅葉はカバンで殴りつけた。不意を疲れたせいで角を曲がってきた男は倒れた。
「なんなの」
紅葉は転がった相手を何度も殴りつけた。
「落ち着いて。朝あっただろ」
紅葉は手を止めた。そこに転がっているのは朝あった青年だった。
「朝のテレビ局の人?」
それでも気を許さずに紅葉は男と距離をおいていつでも逃げれるように身構えている。
「そんなに警戒しないで小原紅葉君」
「あなた誰?」
「宇賀史明。帝テレのディレクターだ」
「それでストーカーなの呆れた」
宇賀は大げさに手を振った。
「子供に興味はないよ」
−それはそれでむかつくかも−
紅葉は複雑な気持ちで宇賀を見た。
「それで何の用なんです。人の名前まで調べて」
「調べるも何も君は有名なんだな。在校中、3年連続で主役を勤められなんて珍しいそうじゃないか」
「劇はみんなで作るものです。主役だけが嬉しいなんて勘違いよ」
「悪かった。実は君に聞きたいことがあってね。朝、君を助けた娘について聞きたいんだ」
宇賀は人懐っこい笑顔を見せた。
◇
小原紅葉と宇賀史明のいる池之端公園はどこの住宅地にでもあるような公園だった。
ブランコと滑り台、砂場くらいしかなくあまり広くはない。
昼間は子供達の声が、夕方には学校帰りの中学生が集う小さなオアシスも灯りのつくこの時間誰もいない。
街灯の小さな明かりの中で塗装の剥げたベンチに宇賀史明が座るのを小原紅葉はじっと見た。
手はいつでも殴れるようにカバンをぎゅっと握っているし目も不信に裏打ちされている。
宇賀はそんな紅葉の姿に苦笑を浮かべた。
「まずは質問せずに俺の話を聞いて欲しい」
紅葉は頷いた。
「今から三年ほど前になる。この街みたいなあるベットタウンで火災があった。その家には姉妹がおり、妹の方は暫く前に行方不明になっていた。家の中では両親が死んでおり、大量に出血があった。そして姉の遺体が出なかった」
紅葉は頷いた。
「その姉妹の一人が五月さんって言うんですか?」
「姉の方だと思う。火事の後、妹の方は身体こそ出てこなかったが、大量の血液と服。キティの時計とか、遺留品が発見されている。大丈夫かい?」
宇賀がそう言うのも分かるように紅葉の顔は悪くなっていた。
「いえ続けて」
そう答える紅葉の中には被害現場がフラッシュするように見えていた。
廃工場、墓石のように並ぶさびた無数の工作機械。
それが実際のものから分からないが、鼻が酸っぱくなるような血の臭いまで感じられた。
「結局、姉妹は二人とも現在にいたるまで発見されていない」
「それだけじゃ五月さんがそのお姉さんだっていう説得力がありません」
紅葉は必死に言った。それは五月明を信じているからではなく自分の中で生じていくイメージを抑えるためだ。
「証拠はある」
宇賀の顔から今まで見えていた軽薄さが消える。
「俺は彼女に会った事がある。よく覚えてる」
「どうして同じ人物だって言い切れるんですか。だって三年も前なんでしょ。それに指紋とか物的証拠は?」
「何も無いよ。きっと背も伸びたろうし、髪型も、整形してれば顔も違うだろう」
「じゃあ、でたらめじゃないですか」
「あの眼が忘れられない。妹を探して走り回っていた彼女の眼を」
宇賀は紅葉ではなく何か違うものを見ていた。紅葉の中に知らない少女の姿が飛び込んでくる。少女は誰かの名を呼んでいた。その少女の顔は。
「それからすぐだったよ彼女の家が火事になったのは」
紅葉は宇賀の顔を見た。
「瞳の輝きまでは整形でも変えられない」
少女のイメージと五月明のイメージが重なっていく。
「気分大丈夫?」
紅葉は頷きながら言った。
「埋立地だったんですか妹さんを差はしていたの?」
宇賀の顔色を見てそれが真実なのが紅葉には分かった。
「君はやっぱり何か」
「ごめんなさい」
紅葉は駆け出した。
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