Before
Babel

降誕
nativty
7月17日

 

 

 

  小原家の朝は静かに始まる。平日であろうと土日であろうとそれは変わらない。
  自分の部屋から紅葉は足音を立てないようにダイニングキッチンに向かった。
  翻訳家をしている母葉子は一家二人の生活費をひねり出すために、締め切りが重なると徹夜もしょっちゅうだ。きっと朝まで仕事をして、うとうとしているであろう母親を起こすのは悪い。とはいうものの、朝食の支度を静かにするのは結構難しい。
  炊き立てのごはんと、なまたまご、昨日の残りの味噌汁、緑茶という感じだ。
  音量を絞ったテレビを見ながらごはんを食べ始める。
  紅葉には関係ない世界がテレビの向こうに広がっているのがいつもの姿だった。
  どんな大きな不幸でも、小さい幸せも。良いことも悪いこともテレビを通せば、それは娯楽になる。
  でも、今日は違っていた。
「ああ」
  紅葉は箸を止めて、テレビの中を見つめた。そこに映っているのは同じ町内にある小学校だった。
『うさぎ13匹が殺されていたのを飼育係の女子生徒が見つけました。警察では何者かがフェンスを破り、犬を離したと見て捜査を進めています』
  ウサギ小屋の映像が映り、すぐにスタジオに切り替わる。
  紅葉は嫌な気持ちになったままテレビを消した。そのまま食事の手も止まってしまう。
  ほんの少しだったが、うさぎ小屋の床を染めていた黒い血が想像を広げていく。血は黒さを失い鮮やかな赤にと代わり、
「おはよう」
  紅葉は声の方を向いた。
  目をこすりながら起きてきた母親の葉子の姿があった。
「お茶飲む?」
  紅葉は答えを待たずに湯飲みを用意し、母親にお茶を渡した。
「起きてくるなんてめずらしい」
  紅葉に渡された茶を飲みながら葉子は笑った。
「今日は何の日?」
「?」
  葉子はにっこりと笑うと紅葉は眉を潜めた。こんな顔をする時の母親は怒っている時が多い。もっとも母が怒る原因は紅葉ではあるのだが。
「今日は有馬先生のところに行く日でしょ」
  紅葉の顔が崩れた。
「忘れてた」
  葉子はため息をついた。
「今日の5時から」
「あの今日も練習があって・・・」
「一週間前に言ったでしょ。劇をがんばるのもいいけど、先生のところに行って貰うのが、わたしの条件なんだからちゃんと行くようにね」
  紅葉は泣きそうな顔で葉子を見ている。
「分かった。じゃあ、6時にお願いしてみます」
「ママ大好き」
  子供のように抱きついてくる紅葉に向かい葉子は言った。
「ばか言ってないで早く用意して。遅刻しちゃうわよ」
「分かった」
「顔色悪いけどちゃんと寝て・・・るわね。昨日も十時には寝ぼけて歌ってたものね」
「ほんと?」
「ええ。そのおかげで仕事がはかどること」

 紅葉は通学路を早足で歩いてていた。既に始業時間ぎりぎりの事もあって、本当は走ってしまいたい。
  だが、さっきから誰かにつけられているような気がしていた。気のせいかもしれないが誰かの視線を感じるのだ。
  学校でさんざん言われてきたくらがりに出る変質者の事を紅葉は思い出していた。ただ、今は朝。こんな時間に出る痴漢がいるとも思えなかった。
  朝のニュースの映像が浮かんだ・・・学校までもうすぐだ。
「痛」
  紅葉は誰かの背中にぶつかった。
「ごめんなさい」
  紅葉のぶつかったのは20代半ばくらいの男だった。
「大丈夫?」
  男の差し出された手を掴んで紅葉は起き上がった。
「すいません」
「お詫び代わりに少し話を聞かせてもらえないかな」
  紅葉は男の腕章に気付いた。テレビ局のマークが描かれているのを見て紅葉は朝の放送を思い出し顔を強張らせた。
「ぶつかったのは謝ります。でも、すいません」
「本当に少しでいいんだけど」
「そんなにきつい事言わないで。かわいい顔が台無しだよ」
  助けを求めるように周りを見るが、時間的にもう学生の姿はない。
「紅葉遅刻するよ」
  紅葉の肩を捕まれたと思うとすぐに男から引き離された。小柄な紅葉の身体は気付くと校門を抜け、校内にあった。
「ありがとう」
  そこには五月明のメガネをかけた整った顔がある。
「もっと強くならないと」
「急がないと遅刻しちゃうよ」
  紅葉は校舎に向けて走り出した。

 紅葉は街を一人早足で歩いていた。朝もそうだが今日は随分早足だった気がする。
  蔦と煉瓦の壁に挟まれた道にかかる夕日が赤に世界を染めていた。その中で紅葉は朝の五月明の事を思い出していた。
「もっと強くならないと」
  そう言った明の目にあった真摯さを紅葉は怖かった。
「急がないと遅刻しちゃうよ」
  おどけた様子で答えるのが紅葉の精一杯だった。
  そのせいで授業に身が入らなかったし、何より明とうまく話す事もできなかった。
「頼りないものね」
  紅葉は呟いた。
  朝のこともだが自分は頼りない。ぼんやりとしているというか、なんとなく生きている感じだ。
  舞台に立っているときの自分は、自分が自分であることを残しながら違う誰かを側に感じる。いや、自分は横に立っていて誰かになっている。そんな時、世界でも相手にできるくらいなのに、こうして一人歩く自分は小さい。
「もっとしっかりしないと」
  そうしていると見えてきたのは一際目立つ看板だった。『有馬診療所』と大きく書かれている。
  大きな看板の横の小さな通用門を通り敷地の中に入った。一階建ての建物で、戦前に建てられたものだが、清潔な感じがして紅葉は好きだ。田舎にでも来た気分というのか安心する。
  中には黒と三毛と銀毛の三匹のネコがいた。ネコは紅葉に向かって一斉に目をやった。
「こんばんは」
  三毛が近づいてくると紅葉は中腰になってネコの頭を撫ぜた。他の二匹は興味無さそうに毛づくろいをしている。
  まるで子猫のように三毛は紅葉にじゃれついてくる。紅葉が三匹のネコと知り合ったのは5才の時だから10年くらいになる。
  普通のネコは野良猫で3年、飼い猫で10年というからもう老ネコと言えるが、この三匹は初めてあって会った時から変ったように思えない。
「よしよし」
  紅葉が三毛の喉をさすっていると診療所の扉が開き老人が姿を現した。
「おはよう紅葉君」
  その白衣姿の老人が有馬診療所長の有馬暁生だった。
「もう夕方ですよ」
「君は目醒めとるかね?」
「そんなに眠そうですか?」
  紅葉は目を擦った。有馬は頷くと、扉を大きく開けた。
「まあ、入りたまえ」
  有馬は診療所に入った。
「ばいばい」
  紅葉はネコに手を振ると診療所に入っていた。
  三毛はその様子をじっと見ていたが、大きな音でも聞こえたように外へと通じる門の方を向いた。


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