アル・ナスラインはソファに座ったまま小さく息を吐いた。
明るかった外は既に赤く染まりつつある。こうして長い時間またすような人間ではないから、よほど抜けれない事があったのだろう。
アルは前もこうして待っていった結果、死ぬような目にあったことを思い出した。
「何かあったのでしょうか」
横のフェルティアも同じ事を考えていたようだ。
「そうだな。十分考えられる」
扉が開いた。入ってきたのは一人の短髪の青年だった。ロディ・ファーランド。この館の主だ。
「待たせてしまってごめん」
ロディ・ファーランドは小さく頭を下げた。
アルと、フェルティアは立ち上がると小さく会釈した。
「いやいや大丈夫だ」
「そういってもらえるとありがたいよ」
答えるロディの顔は穏やかだった。冒険者だった時も、今のように騎士団長であってもそれは変わらない。変わったとしたら見ている側の人間の問題。そんな風に思える。
だから今日、ロディの顔が不安を抱えているように見えるのはきっと気のせいなのだろう。
アル・ナスラインはそんな風に思いながらロディ・ファーランドの顔を見つめた。
「どうしたのアル?」
「何かあったかと思って。わしの錯覚ならそれにこしたことはないのだけれど、それにここまで時間がかかった原因はなんだ?」
ロディは苦笑いして懐から赤と黒で飾られた巻物を差し出した。
「古式ですね」
フェルティアはいった。
「古式?」
アルの問いにフェルティアは頷いた。
「戦端を開くのに対してもたらされる布告状です。現在では、魔術による布告と同時に戦闘開始になるので」
アルは渡された巻物を開いた。
精緻な筆跡で綴られた文面は簡単なものだった。一言でなら降伏を勧めていた。ただ、具体的な事実のないただの文章だ。脅迫まがいのその文はよくある類で黙殺しても一向に構わないはずだった。その署名以外は。
フミヨ代表 バネット・ガドフリー。
フミヨ宮廷魔術師 シャイア・アルフィード。
「これは?」
「昨日、届けられた。街の一つがフミヨの軍に包囲されている。正直、蹴散らせない数じゃない。でも、この署名を見てどうしたものかと思っている」
「戦えばいい。シアは消えた。こうして生きているならこんな形で連絡はしてこないはずだ」
「僕もそう思う。でも、この手紙を書いた人間は僕とシアとの交遊を知っている」
「戦場にはいつ行くのだ」
「議会の決定が出たら直ぐに行くよ」
「わしも同行しようか」
「それはありがたい」
ロディの顔が笑顔に変わる。アルのような優れた癒し手は助けになる。加えて軍に高位の神官がいた場合、回復が早くなると言われている。癒しに関してはアルは最高位の神官なのだから問題はないだろう。
アルは笑顔でいった。
「ロディ、本当に相手がシアならどうする」
「シアなら? そんなわけないよ」
そういってからロディは破顔し、
「生きていてくれるだけで嬉しいからね。誤解はきっととくことができるから」
アルとフェルティアは頷いた。
「魔術師も同行した方がいいなら、わたくしも参ります」
「いや、今回は軍事行動だからやめておいた方がいい。もし家に迷惑がかかったらもうしわけないからな」
「ああ。そうですか」
「レジス氏と帰りを待っていてくれ。一緒に大神殿に帰ろう。すぐ蹴散らしてくるさ。なあ、ロディ」
ロディは苦笑いを浮かべた。
アル・ナスラインは速さを増そうと馬の腹を蹴った。
軍列から離れていくのは不安だがしょうがない。もう前の方では戦いが始まっている。
ロディ・ファーランドの軍に参加して三日。後衛部隊に入り込んだアルは聖女らしく振舞い信頼を勝ち得ていた。
「聖女さまお待ちください」
「いえ急がないと。あなたには聞こえませんかこの声が」
後衛部隊の隊長の弁にアルは首を横に振った。
「ロディさまなら遅れをとることはありません」
「そうかもしれません、でも」
とてもいやな予感がした。
回りは森や林が広がり、静けさに満ちている。どこにも敵の姿はない。
こんな風に何も分からずに不安だけが増大していくのは自分らしくない。それは分かっている。
「少し見たいものがあります」
神眼を開いた。
平穏そうな風景。だが、精霊たちは慌てふためいていた。何か不安なのか恐ろしいのか無秩序になりかかっている。
こんなことを見るのは初めてだった。
アルは一時間あまりでたどり着いた。馬が消耗しきるたびに癒しを施して速度を落とさなかった為だが、もう馬は限界だった。
馬から降りて近づく街は一見平穏そうであったが決してそうでないのは一目で分かった。
街を守っていた城壁は全て溶け切ってこの世から消え去っていた。在り得ない莫大な温度にさらされたように見えるそれは膨大な火力によるものだ。
シアならこのくらいやってのけるかもしれない。だが、綺麗に城壁だけ消し去ったそれはアルの知るシアの技ではなかった。
「シアなら全部吹っ飛ばしているな」
彼女は莫大な魔力を放出できながらそれを制御できる鋭さの欠けている魔法使いだった。
小規模な術ならともかく街全体の城壁をきれいに破壊するなんて考えられなかった。
だが、安心は消えた。
砂漠の中に赤く赤熱した姿が見える。そこは砂漠ではないはずだった。一瞬で精霊の力が消耗され放出された結果がその砂漠だった。
「狂熱の骸」
それが禁呪と呼ばれる対神呪文の一つであるのをアルは思い出した。