草一本生えていない寒々とした空き地に立って宇賀史明は小さくため息をついた。
そこはかつては小原家のあったところであった。小原家が火事に襲われてから一月あまりが過ぎている。
保坂真由美、亜由美、そして小原紅葉。何もする事ができずにまた今を迎えてしまった。
「宇賀君」
穏やかな声がかかった。
宇賀は見ながら驚きの声を上げた。
有馬暁生。大学生活最後の夏にあった忘れられない人物の一人だ。
その記憶は常に一人の少女に結びついている。だから今日まで連絡をとることはしなかった。
「有馬さん」
「久しぶりだね宇賀君。時折テレビで君の姿を見かけるよ」
「ありがとうございます」
「君はどうしたのかね?。こんなところで」
「ちょっと取材でして」
言ってから軽装すぎる自分に宇賀は苦笑した。半休をとって自分自身に整理するために来たのにそれを見せないようにする自分が滑稽だった。
「時間あるかね?」
宇賀は時計を見た。時刻は10時。
「16時までに戻ればいいですから大丈夫です」
「それは良かった」
有馬は穏やかに笑みを浮かべた。
「では付き合ってくれ。実は芝居の券を貰ったのだが・・はは、一人住まいの寂しさで一緒に行くものもいなくってね」
「はい」
二人は連れ立つと道を歩き始めた。
宇賀は宮本三百人劇場の観客席にいた。
規模は300人ほどだが公立の高校の敷地内の施設の中では珍しく、しっかりした照明施設と音響施設が整っているから千葉ではよく舞台が行われるところだ。
あの時を境に消えた二人の少女の事が思い出される。
小原紅葉、そして五月明・・保坂真由美の事も。
照明が暗くなり、アナウンスが入る。
「ただいまより「PANDORA」を開演いたします」
そして幕が上がった。
闇に包まれた舞台。背景の山を思わせる景色が見える中で、少女が一人上手から現れる。
「つらいことや苦しい事っていっぱいあると思う。でも生きているのってそんなに悪いことじゃない。わたしはそう思うの」
スポットライトの白い光が少女の姿を照らし出す。その姿は。
幕が降り、劇場の中にも光が戻る。しかし誰もが今見た何かに捕らわれたように立ち上がることは無かった。
カーテンコールが始まったが、その中に少女の姿はない。
宇賀は涙を拭きながら立ち上がると外に向かい飛び出していった。
黒く塗られた鉄柵の向こうに宇賀は目的の少女を見つけた。
劇場の前の道路に少女が歩いていた。距離は遠くない。だが高い柵が二人の間を挟んでいる。
「小原くん」
少女は宇賀の方を見た。
そこに立つのは小原紅葉の姿だった。だが、その印象は変わっていた。目の輝きはまっすぐ澄んでいて前よりもずっと落ち着きをもって思えた。
「宇賀さん、明が、真由美が『ありがとう』って」
「真由美くんは?」
「ここにいます」
紅葉は自分の胸に手を当てた。それが心の中にいるという意味なのか他の意味なのか宇賀には分からなかった。
「私にも明にも、もう近づかない方がいい」
「待ってくれ。また君は舞台に立つのか?」
紅葉は道路を渡り歩き始めた。
「君の舞台をもう一度見たい」
車が通り過ぎる。
まるでそこにシーンの切れ目でもあるように紅葉の姿は消えていた。
走りかけて宇賀は立ち止まった。何かわかった気がした。この喪失感は二度目だった。
「行ってしまったようだね」
振り返ると有馬が立っていた。
「はい。やはりあなたは知っていたんですね」
「彼女とは随分長い付き合いになる。それこそ孵った時から」
有馬は大きく息を吐いた。安堵のような、恐れのような混じった息。
「彼女は今日新しい舞台に立ったのだ。現実というね」
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