7月15日 船橋
星明りに照らされながら小原紅葉は急ぎ足で学校から家への道を歩いていた。
8月に行なわれる劇の発表に備えて、峰台中学校の部活動は、放課後の許されるぎりぎりの時間、7時過ぎまで続いていた。
紅葉も練習に熱の入った一人だった。と言うよりもっとも熱の入った人間かもしれない。
主役だからということもあるがそれだけではない。峰台中学校の演劇部に入った時から『ハムレット』のオフィーリアや、『ローマの休日』の王女など、主役を務めてきた。二つとも紅葉の好きな芝居だ。2つとも紅葉は全力で演じた。でも今回の芝居は紅葉の中で違う価値をもっていた。
芝居の名を『PANDORA』という。ギリシア神話に描かれるパンドラの箱をモチーフに作られたもので、3年ほど前に公開された。
それもただ一回。TDLに程近い駐車場で一回だけ。舞台もテントであったし、舞台背景といったら夜景のみであった。
それでも小学生だった紅葉は母の葉子と一緒に見て、演じるということに目覚めたようなものだった。
紅葉は空腹を覚えた。舞台に立っているときは集中してしまって何も感じてないが、こうして小原紅葉に帰ると身体はもう立っていられないくらいだし、お腹も音が止まらないくらい空いてしまっている。
「恥かしいなあ」
誰もいない事に感謝しながら紅葉は足を速めた。
紅葉の家のある宮本は戦前からの家が多く、塀は高く薄暗い。その中で怖いのは塀から飛び出して見える木々だ。
幼稚園の頃から、木々が童話や、子供の頃見たディズニーの映画のように、いたずらしてくるような気がしてくる。
[あいかわらずこの道長いな]
ぼんやりと歩いていた紅葉は立ち止まって周りを見た。
「あれ?」
塀の上の木々は今までと変わらず鬱々と茂っているが、そこは知らない場所だった。振り返ってみれば同じような道がずっと続いている。
紅葉は笑った。毎日のように通っているこの道が知らない場所のわけは無かった。
[気のせい気のせい]
街灯の薄暗い輝き、高い塀、古めかしい煉瓦の舗装。疲れもあってきっと錯覚してしまっている。
紅葉の後ろの方で何か音がした。
「気のせい気のせい」
そう口に出した程、聞こえてきた音は大きく、気のせいだとはどうしても思えないものだった。
紅葉が振り返ると暗がりがあるだけだ。街灯がぱちぱちと音を立てた。遠くからまるで何かが伝わってくるように街灯が次々と明滅する。
一際大きく街灯がはじけた。
闇の中、赤い火が二つとともっていた。紅暗がりと思ったものは大きな犬だった。
火に似た目が紅葉を射すめている。紅葉は犬を見た。
どうしてその赤い火のような目なのか。充血しているわけではない。
疑問が頭の中で弾いた。それは直ぐに終わった。犬がくると疑問は悲鳴になって響いた。
「こないで」
犬は笑うように大きく口をあけると飛び掛った。
光が踊った。
そう思った刹那、犬の身体は宙で止まっていた。
「aNNu」
紅葉に襲い掛かってきた犬は情けない声を上げながら地面に転がった。犬の背には何かナイフのようなものが突き刺さっている。
驚きと恐れに動けない紅葉はのた打ち回る犬を見つめた。
紅葉と犬の目が合った。
『なに、これ?』
赤い犬の目は何か紅葉の中で不快感を与えた。
犬の目に見えるものが本能のもたらしたものではなく、知性のもたらしたもののように思えた。獣性のもたらす衝動を感じさせる怒りではなく、それ以外の何かだ。
しかしその何かに捕らえられたように紅葉は動けずに立ち尽くしていた。
「逃げれば」
冷やかな響きを持った声だった。
紅葉は声の方を見た。
薄暗い街灯を背にして紅葉より少し年上と思われる見慣れぬ制服姿の少女が立っている。
立ち上がった犬は少女に向かい襲い掛かった。少女の口元に小さな笑みが漏れるのが紅葉には見えた。
「失せろ」
少女の手には刀が握られていた。流れるように動いた手が犬の身体をなぞる。
犬の身体は切り裂かれていった。
土砂降りのような降りかかる血を紅葉は見た。だが、血は地面に落ちる前に宙できえていく。犬の姿もぼやけたと思うと実体を無くし、暗闇だけがそこに残っている。
「使いか」
少女は小さく呟いた。
「ありがとうございます」
紅葉は震えの残る声で言った。
「夜道には気をつけなさい」
少女は紅葉に背を向けて歩き出した。
「あの」
風が吹いて砂を巻き上げた。
紅葉がまたたいた間に少女の姿は消えていた。
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