かっぱ橋考

番外2


   都内にかっぱ橋というところあります。新堀川にかかる橋が地名になった場所で、浅草の近くにあたります。東京在住の人でもみんな知っているわけではありませんが、問屋街であります。扱っているのは食べ物関係の器具で、鍋やらフライパン、食器もですが、普通見かけないそばうちの道具や、石焼ビビンバ用のバーナーなどいろいろと売っております。
  さて、かっぱ橋というと何を思い出されます。合羽であるか、河童であるか。と思われませんでした。そんな迷ってしまうのなら漢字でずばり書いてしまえばいい。そう思われる方がいるかもしれませんが、そういうわけにはいかないのです。大きいところでは由来に2つ説があります。


   合羽説。
  その昔ある大名の下屋敷があり、内職で作った雨合羽を、天気の良い日にと干していたという、「雨合羽」からの説。


 河童説。こちらはやや詳しい目に。
  文化年間といいますから大よそ200年ほど前(振袖火事とか、山東京伝とか、甦りし蒼紅の刃とか)、合羽川太郎(合羽屋喜八)といわれる商人がいました。合羽を商って富を得た人なのですが、悩みがありました。雨というのは慈雨という言葉もあるようにありがたいものですが、江戸はもともとが埋立地ですから水はけが悪く、雨が降れば家が水に漬かり、洪水になるところです。川太郎が儲かれば儲かるだけ、苦労している人たちがいるのです。そこで川太郎は私財を投げ出して掘割工事を始めました。しかし、なかなか捗らない工事の様子を見ていた隅田川の河童達は、川太郎の善行に感動して夜な夜な工事を手伝ったそうです。また、川太郎が子供の合羽を助けた恩返しともいいます。そして工事は終わりました。その後、川太郎が亡くなり曹源寺ことかっぱ寺に墓所ができてから、河童が墓参りに訪れたといいます。河童を見た人は商いがうまくいくようになりました。そして河童大明神がお寺の中にできました。

       
かっぱ寺表               河童大明神の表

河童の碑


大明神

 さて、自分が回っていて思いついたのはこんな事でした。合羽を使う人間といえば、どんな人間でしょう。雨の中、歩き回るものですが雨が降っていなくても合羽が必要な職種。それは水にぬれざるを得ない場所で労働に従事している人間。水に関係する土木技術者ではないかと。では、素直にそう記せばいいと思われるかもしれませんが、できない理由があります。
  水利や治水といった事業は大きな事業ですが、その技術者は士農工商のどれに入ると思いますが。どこにも彼らは入ることはありませんでした。河原者という言葉をご存知ですか。河原は社会外の空間であり,堤上と河原のあいだには厳然たる差別が存在したのです。だから彼らに感謝しても、それを書く事はできません。だから河童という形で書き残したのではないでしょうか。

 もともと江戸というところは、『宵越しの金は持たない』とか、『火事と喧嘩は江戸の花』といいますが、打ち上げ花火的な価値観があります。理由は江戸は上方に比べて、地震や洪水といった災害が多く、たとえ自分がどう守っていてもいつ失せてしまうかもしれないのが前提にあります。瞬間の気風の好さが優先されます。
  そんな価値観の中で、川太郎がしたことはすごいことです。彼は今を含めて後の事も考えて工事を始めたのですから。



お寺の紋もきゅうり 大明神内の河童の手のミイラ       鬼瓦まで河童です。