あれはわたしが10才の夏のことでした。 母が患い、父方の実家に預けられたわたしですが、都会育ちのひ弱さからのけものにされ、食べ物も違う事からすっかりホームシックにかかっておりました。 ある日の事、田舎で過ごすのが嫌になり、家出、自分からすれば自分の正しい場所に帰ろうという心積もりで、山道をあるいていったのです。 しかし車で来たのとは大いに違い、いつまでも自分の故郷につながる町を見出すことは出来ず、気付けば山の中に迷っておりました。 すっかり夜も更け、わたしは木陰で休む事にしました。 しんしんと冷える空気と、山犬とも山猫ともつかぬ得体の知れない声にわたしは心安らかに過ごす事もできず、ただ震えておりました。 空を見ますといつも町で見るのと違う、宝石箱をひっくりかえしたような空が見え、少しばかり心が落ち着いてきました。 家出する時に持ち出した星の本を見ながら、空に絵を描きはじめました。 「しし座」 「さそり座」 「夏の大三角」 少しづつ、恐れも消え一心にその遊びに夢中になっておりました。 「あれもそうなの」 その声に振り返りますと自分よりわずかに幼い洋装の少女が覗いております。 おさないながらもきれいな少女にわたしは少しばかりどきどきしながらじっと見返しました。 どうしてこのような山の中に、しかも夜に少女がいるのか。 狐に化かされる、そうしたものが頭にありましたが、従兄弟達が脅かすためにいった荒唐無稽な他の話を思い出し、わたしは落ち着いて少女を見ました。 その少女は大きな目をしていて切れ長の狐を思わせる顔をしてはおりませんでした。当然、尻尾も出ておりませんし。 そうして見ているときれいなものの普通の少女で、このような山中にいるのも、田舎の子の力強さはしっていたのでそうかなと納得してしまいました。 「きみだれ」 そのことばにこたえず少女は空を指差します。 「あれは?」 「蛇つかい座」 「こっちは」 「白鳥座」 おなかがなりました。 「なんだこっちにきてよ。食べ物あるから」 彼女につれられてわたしはあるいていきました ついたのは美しい街でした。 わたしが行きたかった駅のある町とは違う。むしろ外国の街のような街。 石造りの鋪道に、最初からそうなるように設えられたような家々。歩く人の姿はどこか物静かで、品のあるように思えました。 このあたりが昔避暑地だったというのできっとその街なのだと思いました。 少女が連れて行ったのはその中にあるアパートメントでした。 外の異国のような町並みを中は普通の家で少女はパンを出してくれました。 そのパンを食べるわたしのようすを少女はじっと見ておりました。 恐らくそれは少女の(そこにおとなの姿も見えないことから)用意された夕飯だったのでしょう。 どこかすまない気持ちになってわたしは少女を見ました。 「もうお腹いっぱいだよ」 「じゃあ、もらうね」 少女はパンを食べ終えるといいました。 「もっと星の話して」 その少女に話がしたくて言われるままに星の話をしました。 星座の話から始まって、昔犬には天国は無くキリストがそれをかわいそうに思って星を作り犬によく分かるように星に尾をつけた話や、月から少しはなれたところに従者のように見える宇宙塵の話、少女の眼はその度にきらきら輝きました。 今でもはっきりその眼を思い出すことが出来ます。わたしの好きな星の光よりももっときれいな輝き。それは今まで見た中でもっとも美しいものでした。 でも、どんな物語にも終わりがあります。どんなに必死に思い出してもわたしが知っている物語はすべてなくなっていました。その時空は明らんでおりました。 「送って行くよ」 少女はわたしの手をとって外に出ました。 街はまだ眠っているようでわたしと少女の姿しかありません。 朝日の影を追うようにわたしたちは歩きました。 やがてわたしの知る山の裾に出ました。 「星の話楽しかったよ」 「ありがとう」 わたしは答えながら何かを感じておりました。 「わたしやあの街を見たことを言ってはだめだよ。そうしたら忘れてしまうから」 「また、会える?」 少女は答えずただ笑いました。そして背を向けると山の中に消えていきました。 実家は大騒ぎになっており、こっぴどく叱られたものの、山の中で一夜を過ごしたせいか、従兄弟たちも一目おいてくれたのか平穏に夏が過ぎ、わたしは街に戻りました。 こうして文章にした事が言ってはならない事になるかは分かりません。でもきっとこの物語が人目についたら何もかも忘れてしまうのでしょう。 それなのに何故話す気になったのか目にした方は思うかもしれません。 妻を娶る事になりました。わたしは彼女に対し誠実でありたいのです。隠し事などないように。しかし、彼女にこの話をしてしまったら、わたしの見たうつくしいものの記憶は死んでしまうのです。だからこうして残すことにします。 だから、この物語を読んで少しでも懐かしいと思ったあなたはわたしなのかもしれません。 |
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