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『…わたしが生まれた夏は母さんの生きてきた中で一番暑かったの。
千の夏が重なったくらい』
雨が降っている。
山で遭う雨は、不意に訪れ、予想を許さない。街に入れば、ほんの少しの努力で逃れられる雨もこの山の中では無理な事だ。
木々の葉を揺らす雨音は大きく森の中に響き、山が脈打つ鼓動のように思える。鼓動の中を宇賀史明は走っていた。自分自身の鼓動が大きく山と一体になったような錯覚。
どこでケチがついたんだ。
確かニュースが聞こえていた。途中で通り過ぎた街の一つで強盗が出たというのを聞いた時に、嫌な予感がした。ラジオが聞こえなくなったと思うと車自体も力を失い止まってしまった。それでも自力でどうにかなると信じていろいろ手を尽くしたのが、いつまで待っても車一台通ることはなく、思いついたのが途中で見た看板だった。随分と古びていたがそこには旅館の名前が記されていた。そこで電話を借りよう歩き出したのだ。晴れていた空は気付けば黒雲が見え、すぐに大粒の雨が降り始めた。
シャツもジーンズも雨に濡れ、身体に張り付き走り辛くなっていた。遠からず足を縺れさせ転がる事だろう。
時折、山に囲まれた狭い空で稲光が見える。雷鳴との間隔がせばまり雷は少しづつ近くなっているようだ。
宇賀の顔が明るくなる。遠くに灯りが見えたのだ。宇賀は足を速めた。
近づいてみると屋敷の窓からこぼれる灯りだった。
宇賀は立ち止まって屋敷を見た。
屋敷は戦前のものらしい和洋折衷のものだったが、手入れは行き届いており清潔な印象がある。
人のいないこんな山中にどうして屋敷があるのか。
疑念が宇賀の頭を過ぎった。
近づいてみると看板がある。消えかかった字で『黒曜館』と。旅館と書かれていたから和風のものを想像していたが、ここが先程の看板のあった旅館らしい。
そう思ってみれば不思議な事は無い。この辺りは戦前は避暑地として栄えたが、他に交通のよい観光地がいくつもできたのと、ダムの建設が重なり、過疎が進んだ地域だからだ。
宇賀は竜の口を模した呼び鈴を鳴らした。答えはない。二度三度と鳴らすとドアが細く開き、隙間からは中年の男の顔が見える。
「何でしょうか?」
「すいません。近くで車が故障してしまって。あの電話を貸していただけないでしょうか」
「もうしわけありません。電話は壊れておりまして」
もう体は限界だった。
「じゃあ、一晩泊めていただけませんか。お金はちゃんと払いますから」
「いいえ予約でいっぱいでございまして」
愛想のない反応を見て宇賀はラジオで聞いた銀行強盗のニュースを思い出した。疑われていると思った宇賀がその事を言おうとすると、
「ではわしと同じ部屋ならどうじゃな」
宇賀は振り返った。
帽子を被った小柄な老人の姿があった。麻のスーツを身につけ、大きな古びたカバンを持っている姿は中小企業の社長を思わせた。
「予約しとった有馬暁生じゃ。部屋は201。マダムが居れば去年も来たので一目で分かると思うのだが」
「暫くお待ちください」
宇賀と有馬を残し、男は建物の中に戻っていった。
「すいません。宇賀史明と言います、剣柄大学の学生です」
宇賀は頭を下げた。
「随分と手間取ったようじゃの」
「ええ。入れてもらえなくて」
「いやいや車じゃよ」
宇賀の顔を有馬は驚いて見つめた。
「どうぞ有馬様」
二人は黒曜館に入った。
洋風に作ってある部屋の中は暖かい。暖炉には火が入っていたからだ。
宇賀の体は寒いままだった。無数の視線にさらされて。
部屋の至るところに人形が置いてあった。いわゆるフランス人形と言われる古い西洋のものであるようだ。
有馬はカバンの中からタオルを出すと宇賀に渡した。
「髪を拭き、暖炉で暖まってきたまえ」
有馬の言葉をありがたく受け、宇賀はロッキングチェアや小さなテーブルの置かれた暖炉の前に寄った。
暖炉前のロッキングチェアの上にも少女の人形が置かれていた。
きれいな人形だった。服は藍色の着物で、艶やかな黒髪を腰まで贅沢に使い、肌の色は澄んだ白。ただ、目を閉じているので瞳の色は分からなかった。
「雨が降ってきたのね」
人形は言った。
宇賀は目を開けた人形を見つめた。
叫びが出かかった。よく考えれば人形であるわけはなかった。そこにいるのはただの少女だ。
「濡れてる」
宇賀は慌ててタオルで濡れた身体を拭き始めた。
「今退くね」
少女はチェアを明け渡すと部屋から出て行った。
足音も残さずに。
黒曜館の客室は清潔な印象を与えた。
古いが隅々まで磨き上げられた部屋や、手入れの行き届いた家具は、時代を見守り、これからも見つづけていく。そんな風に宇賀には思えた。
「明日わしの車で下まで送るからそこで修理屋を頼むんじゃな」
「どうして車が故障したのを知ってるんですか?」
有馬は少しばかり自慢気に笑った。
「まず、第一にGパンに油がついておる。二に服の袖にグリースらしいものがついておる。三に柔らかそうな手からすると、普段はメカニックには触れていないはずだ」
宇賀は何度も頷いた。
「有馬さんは元刑事とか?」
「いいや。学者じゃよ。民俗学の方をな。宇賀君は何部の学生かね?」
「植物学部です。この辺りに自生している植物が変わっているので卒論のテーマにしようかと思って」
有馬は深く頷いた。
「気をつけることだな。この辺りは山地のご多分に漏れず村社会でな。よそ者には冷たい。もっとも慣れればここほどいい所もないが」
有馬の顔色が土気色に変る。駆け寄ろうとした宇賀を有馬は手で止めた。そうしてポケットから薬を出すと飲み込んだ。
「すまんな心配をかけて。少し持病があってな」
答えるうちに有馬の顔色は戻っていた。
壁にかけられた時計が6回鳴った。
「そろそろ食事に行くかの」
◇
変なしゃっくりが出た。
ベットで寝転がっていた宇賀は目を開けた。夜半になり、あれほど降っていた雨は止んでおり静かだ。宇賀は胃の辺りを撫ぜた。
夕飯は最悪だった。肉は靴底を食べているように硬く、スープの中の野菜は生同然、サラダは青虫と目があってしまった。まともに食べられたのはパンだけだった。
有馬は『運が悪かった。マダムの料理ならおかわりを頼むくらいじゃが今日はたくさんじゃ』と慰めとも文句ともいえないものを言っていた。
宇賀は空腹をごまかすために水でも飲もうかと思って一階に下りていった。
階段を下りて直ぐの暖炉の部屋は無数の人形が置かれており、見られているようで落ち着かない。
「どうしたの」
出かかった叫びを押さえて振り返ると白い寝巻きを着た少女が立っていた。
「いや、喉が渇いて」
「うそ。お腹すいたんでしょ」
「君も」
少女は答えずテーブルの上に用意されたコップに水差しから水を注いだ。
「でも水しかないの。どうぞ」
「ありがとう」
宇賀は水を飲んだ。
「眠れないの。少し話さない?」
「いいよ」
二人は並んでソファに座った。
「名前聞いてなかったね」
「宇賀、宇賀史明」
「私はチカコ。千の夏の子と書くの」
「苗字は?」
「チカコじゃだめ?」
「いや別に」
「じゃあいいわね」
少女は大きく身体を伸ばした。
「きれいな名前だね」
「ありがとう」
「名前の理由聞いていいかな」
何か物が崩れるような音がして宇賀とチカコは食堂の方を見た。
「ねずみがチーズでも齧っているのよきっと」
宇賀は立ち上がり食堂に向かった。チカコは宇賀のほんの後ろを歩いてついてくる。
食堂には人影は無い。宇賀は誰かが隠れていないかと周りを見た。
「ねえ」
チカコの指差したのは厨房だった。
宇賀はチカコと一緒に厨房に入っていった。
物音は厨房の床からしていた。床は開くようになっていて地下室があるようだった。
「何かあったら直ぐ逃げるんだよ」
宇賀はそう言って地下に下りた。
壁伝いに降りながら、触れたスイッチを入れる。
ワインラックが置いてある地下室は初老の女が猿轡をかまされ、縄で縛られ転がっていた。
女は恐ろしいものを見るように宇賀の方を見ている。宇賀は猿轡を外した。
「後ろ」
その声が宇賀に聞こえた最後の声だった。
宇賀史明は目を開けた。
黒曜館の無数の人形達が見守る部屋だった。いつの間にか暖炉には火が入っている。
宇賀の手足は縛られており食い込んだ縄で鬱血した手足が痛い。
暖炉のある部屋には食堂で見た顔がみんな揃っていた。有馬に、チカコ、チカコの父、男女一人づつの客、黒曜館の男。
地下で見た初老の女。
ただ、そこにいる人々には違いがあった。縛られているもののと縛られていないものだ。縛られているのは有馬にチカコ、チカコの父、初老の女。縛られていないのは男女の客と黒曜館の男だった。
黒曜館の男は宇賀に近づくといった。
「馬鹿な奴だ」
宇賀が目覚めた事に気付いた黒曜館の男が寄ってきた。
「気付かなきゃこのまま逃がしてやろうと思っていたのにな」
宇賀は男を睨んだ。
「銀行強盗か?」
「ああ」
男は手の中のトカレフを自慢気に見せると弄ぶように宇賀の頭に近づけた。
「君達、素直に自首した前、警察にも慈悲はあるぞ」
有馬であった。
どこか古風な言い方が癪に障ったらしく男は有馬を殴りつけた。有馬の小柄な身体は転がって壁に叩きつけられた。
「黙っていろ爺。こっちはもう何人もばらしてるんだ」
男は怒鳴った。
「勇作いい加減にしろ」
「分かったよ」
猟銃を持った男の声に勇作は舌打ちした。
「どっちみち殺っちまうんだろ」
勇作はチカコの方を見た。
「ならいいだろ」
チカコは何をされるか分からないようで勇作が近づいてくるのを見ている。
「止めろ」
宇賀は叫んだ。勇作は黙って蹴りつけた。腹に入る靴先に宇賀は痛みに耐え切れず身体を丸めた。勇作はチカコに手を伸ばした。
「娘に手を触れるな」
チカコの父は足を縛られながらも立ち上がった。不意をつかれた勇作は床に叩きつけられるが、チカコの父も床に転がる。
先に立ち上がった勇作は倒れているチカコの父に向かいトカレフを向けた。一発、二発。腹と胸を撃たれチカコの父は倒れ動かなくなった。
初老の女は悲鳴を上げるとそのまま意識を失った。チカコは叫びも上げず、荒々しく勇作に引っ張られていくのに身を任せたままだった。
勇作はチカコを連れ、食堂の方に消えていった。
宇賀は必死に身体を起こすと勇作に向かおうとしたが縛られた手足は動かなかった。
銃声が一発響いた。
「どうした勇作」
猟銃を持った男は食堂に向かい走り出した。
銃声の後、沈黙が黒曜館を支配していた。
戻ってきた男の顔は蒼白だった。
女は男に駆け寄った。
「どうしたのあんた?」
「勇作の奴、自分の口を撃って死んでやがった」
宇賀は耳を疑った。
「あの小娘は?」
「そういやいねえな」
男は言った。
宇賀はチカコが無事であるのを願った。張り詰めた時間がほんの少し流れ声が響く。
「ここにいるよ」
チカコが食堂からゆっくりと姿を現す。羽毛のような軽やかな足取りで。
宇賀はあれほど身の安全を願ったチカコを見ても喜びは湧いて来なかった。むしろ今あるのは恐れであり、息苦しさだった。一秒でも早くここから抜け出したいと思った。
「あんたのせいで勇作は死んだんだね」
女は叫んだ。チカコは首を傾げた。頷くように、拒むように。
「この娘おかしいよ。早くやっちまって」
男は猟銃を構えた。
「おかしくないよ」
チカコは男の側に寄った。男は銃を撃つことなくチカコが側に来るのを見ている。
「猟銃は飛び散るから嫌いだな」
男は暖炉から火かき棒を取った。
「ちょっとどうしたの」
女の声が全く聞こえないように男は火かき棒を自分の喉に突き刺した。男はそのまま倒れた。
「あんた」
悲鳴を上げ女が倒れる音が部屋に響く。
チカコはその様を気付いていながらも目を向けずに宇賀に近づいた。
「かわいそうにけがをして」
チカコは宇賀の方に近づくと縄を解いた。
優しい眼差し。
さっきまでの逃げたいという気持ちはきれいに無くなり、こうしてチカコを見ているのが宇賀の中に巻き起こった思いだった。
真実の恋は人を息絶えさせる。相手のことを考えるあまり心臓が鼓動を刻むのを止め、息をするのを忘れてしまう。
今の宇賀はそれに似ていた。恍惚とした中に死は巡っていた。
「そのくらいにしておくんじゃな」
有馬の声に宇賀は我に帰った。
「自衛の為ならともかく食事をするのを黙ってみるわけにはいかんな」
「忘れさせようと思っただけよ」
憮然と言う少女の前で有馬は両手両足を縛っていた縄からすっと自由になった。
「あなたも狩人なのね」
チカコはゆっくりと宇賀から離れ、ゆっくりと有馬の方を見た。
いかなる力の流れがあったのかチカコは何かに弾かれたように弾き飛ばされた。チカコの身体は窓を突き破り外にと飛び出していく。
「君は魅入られておる。決着がつくまで中にいたまえ」
有馬はチカコを追い外に出て行った。
宇賀史明は外に出た。
雨の森の中、チカコは立っている。
寝間着は雨と泥にまみれ汚れているが、その顔やあらわになった手足が闇の中でほんのりと白く光を発しているように見える。
チカコに向かい合うようにして有馬は立っている。
「末期症状じゃな。そこまでなりながらよく人を襲わずにおれるの」
「私は人間よ」
一瞬チカコの身体が霞んだように宇賀には見えた。
有馬の後ろで幹が裂けた。チカコの身体は一瞬で有馬の後ろに移っていた。しかし、それが分かっていたように有馬は背後に何かを放った。それは水だ。
チカコは倒れた。有馬は無造作に手を伸ばしチカコの額に指を押し当てる。チカコの顔色は見る間に悪くなっていく。
「くっ」
有馬の顔が土気色に変るとそのまま倒れた。昨日見たのと同じ発作だ。
有馬もチカコもどちらも傷ついて欲しくはない。だが、
「しっかり」
チカコは倒れている有馬を抱き上げた。
「どうして助けるんだ。殺されそうなのに」
側に来た宇賀の問いにチカコは答えない。
「ポケットの薬を飲ませれば大丈夫」
宇賀の言葉にチカコはポケットから薬を出すと有馬の口に押し込んだ。有馬の顔色が少しづつ生を取り戻し始める。
「化け物、死んじまいな」
女が黒曜館の玄関からトカレフを両手で構えて立っていた。
銃声が響いた。
射線に入った宇賀の身体は飛ばされ転がった。
チカコは女に掴みかかった。再び銃声が響き、チカコの肩を打ち抜く。血にまみれながらチカコは地面に転がった。
「この人殺しがもうおしまいだよ」
女は叫びながら立ち上がろうとするチカコにトカレフの銃口を向けた。
「人殺しはどっち」
チカコは女を見据えた。女は手負いのチカコに憎悪のこもった視線を向けた。
「金も入ってこれからだったのに。こんなとこに来ちまったせいでみんなおじゃんだよ」
狂ったように女は叫んだ。
「もう夜も明けるのでね」
修羅場にそぐわない穏やかな声が女の聞く最後の声だった。女は首を折られ息絶えていた。
「この辺りは気に入っていたのだが残念だ」
血にまみれたチカコの父が立っていた。もう創は塞がっている。チカコは答えず宇賀に近づくとその身体を抱き起こした。
「周りは暗いのに君だけはっきり見えるね」
「どうして助けてくれたの」
「分からない」
チカコの手の中で宇賀の身体が少しづつ冷たくなっていく。
「朝になれば人が来る」
チカコは父親の言葉に首を横に振った。チカコの表情に何かを見取ったようにチカコの父は柔らかな声で言った。
「先に行っているよ」
チカコは穏やかな顔で父親に向かい微笑んだ。
星明りの天幕がチカコと宇賀の身体を隠す。
「まだ答えてなかったよね。どうしてチカコって言う名前なのか…」
か細い星の光を集めるようにチカコの身体はうっすらと光を発した。
「…わたしが生まれた夏は母さんの生きてきた中で一番暑かったの。千の夏が重なったくらい」
夜の幕が開き、朝焼けが森にさす頃、森の中には躯が一つ横たわっていた。
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